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松根城の案内板 |
加越国境城跡群及び道は、北陸道から分岐する小原越や田近越などの脇街道に沿って築城され、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いから波及した加賀前田方と越中佐々方との攻防の舞台となった城跡群と、道(街道)から構成されています。
平成27年10月7日に、小原越とそこに沿う切山城跡及び松根城跡が国史跡に指定されました。
切山城跡は、越中側に大きな堀を設けていることから、佐々方に備えた前田方の城とされ、逆に松根城跡は加賀側に大きな堀が認められることから、佐々方の城と考えられます。
この松根城は石川県と富山県の県境にある松根山の尾根に沿って南北に長く築かれています。この城のすぐ下には「小原道」と呼ばれる旧道が通っていて、加賀国と越中国を結ぶ交通の要衝に位置しています。
松根城の縄張りは、尾根筋の最高地点(標高308m)に本丸が置かれていて、その北側に二の丸、三の丸と2段の曲輪、南側には名称は不明ですが3段の曲輪が配置されています。最も南側の曲輪には虎口があって、その直下には空堀があります。
本丸と二の丸の間にも空堀があり、二段の枡形を経由するように造られていて、二の丸と三の丸の間にも空堀があるという極めて技巧を凝らした城という印象を受けます。
また、南側の大手道はさらに巧妙で、本丸南側の馬出し状の曲輪の前面には二段の横堀があり、曲輪の西側下にも、くの字型に折れた横堀があります。さらに南側にある曲輪に進む際にも、狭い土橋を通るようになっています。
これらの遺構は、この城が織豊系城郭の特徴を備えていることを意味していて、佐々成政により改修されていることを示唆していると言えます。
最も南側の曲輪は細長い郭ですが、この両側の下には横堀が掘られていて、特に東側下の横堀は本丸の下まで長く延びています。横堀も途中で竪堀によって分断されています。
駐車場の南側の広場は低地となっていて最も広い平坦地です。ここは馬場広場ということになっているので馬場があったとすれば一応は納得できます。
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松根城本丸 |
源平合戦の時代には木曾義仲が倶利伽藍合戦の時にこの城付近に布陣しているといわれていますが、そのときに既に城があったのかどうか詳細は不明です。さらに南北朝時代の応安2年(1369年)に桃井直和が、能登金丸城主吉見左馬助と戦ったと言われています。しかしいずれにしても築城年代等については不明です。
長享2年(1488年)、一向一揆衆が守護富樫政親の守る高尾城(金沢市)を攻めたとき、一向一揆衆は越中国からの援軍を阻止するため松根城に兵を配置しているので、既にこの頃には一向一揆の城であったと考えられます。
戦国時代には、天文19(1550)年頃には加賀一向一揆の中心的な武将である洲崎兵庫(慶覚坊)が城主となり、能登へも出兵しています。このときは能登畠山氏の重臣で失脚していた遊佐続光が能登へ復帰するために洲崎兵庫に援軍を頼んでいて、それに伴う出兵でしたが、どうやら和解が成立したようで結果的には遊佐続光が能登に復帰しています。まあ、援軍が功を奏したようです。天正8年(1580年)、織田方の柴田勝家が加賀一向一揆を討伐していてこのときに松根城も落城したと考えられます。
しかし柴田勝家は、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて自害し、佐々成政は秀吉に降伏しています。この際に松根城は佐々成政に与えられた模様で、現在の松根城の遺構も佐々成政がこのときに改修したものと考えられます。
この松根城は、加越国境を守るという戦略的に重要な城だったので、佐々成政も守りを厳重にするためにこのような技巧を凝らした改修を実施したのだろうと考えられます。
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松根城三の丸 |
天正12年(1583年)には、富山城主佐々成政の家臣杉山主計が松根城を守備していましたが、小牧長久手の戦いが起きて佐々成政が徳川・織田方について豊臣秀吉と対立するようになり、秀吉方である金沢城主前田利家の重臣村井長頼が松根城・朝日山城を攻め、両城を占拠しています。佐々成政が松根城を奪回しようと反撃していますが、村井長頼は城を守りきっています。
やがて秀吉の越中遠征により佐々成政が降伏することで抗争は終止符を打つことになり、松根城は前田方の城となっています。
廃城時期がいつなのかも不明ですが、越中国が前田領になったためにこの城の存在意義は大幅に低下したといえるので、この後程なく廃城になったのではないかと思われます。少なくとも1615年の一国一城令の際には廃城になっているはずですがこれ以前に廃城になっている可能性も高いと考えられます。
さて、恒例のこの城を我が軍が攻めるとしたらどうするかですが、この松根城は三の丸のある北側はたいへん険しくて、ここから攻めるのはかなり困難と考えられます。
一方、本丸の南側の虎口も手前に空堀があり、なかなか攻めるのは難しいようです。
つまり難攻不落の名城と言えるので、攻めるにはかなりの大軍で力攻めするのがもっとも早いと思われます。とにかく空堀が縦横に走っていて通路も狭く険しい上に曲がりくねっていて、始末が悪いのです。
なにしろ佐々成政が改修した城ですのに、自分がここを攻めても落とせない城というのも困ったものです。
ただし曲輪は全体的に狭くてあまり多数の兵を駐屯させることはできないと思われますし、もう一つ気になったのは井戸の類が見あたらず水不足が懸念させるので、水を断つといった類の攻撃方法が有効かと思われます。
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小原越 |
松根城下を通る小原越 |
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小原越 |
松根峠 |
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塹壕のような小原越 |
下りが続きます |
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松根城馬場広場 |
右へ行くと虎口があります |
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空堀跡 |
南側曲輪跡付近 |
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本丸跡にあった石碑 |
本丸跡にある三角点 |
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二の丸跡 |
三の丸跡 |
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空堀跡と土橋跡 |
三の丸跡からの階段はかなり急です |
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虎口跡 |
虎口下の空堀 |
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馬場広場東側の土塁 |
馬場広場西側の土塁 |
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馬場広場から見た松根城全景 |
虎口東側の空堀と土塁 |
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馬場広場全景 |
城の南側の空堀と土塁 |
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城の西側への通路 |
本丸からの小矢部市遠望 |
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本丸はかなり広い曲輪です |
本丸北側は一段低くなっています |
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本丸から二の丸への通路は曲がりくねっています |
二の丸はやけにラフな状態です |
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二の丸と三の丸の間の堀切 |
三の丸は詰所のような広さです |
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三の丸 |
三の丸の周りには土塁があります |
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三の丸直下の空堀と土橋 |
三の丸の周りには空堀が走っています |
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城の北側の階段は極めて急です |
城の西側を囲む空堀と土塁 |
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城の西側の竪堀 |
城の西側に走る竪堀 |
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城の西側の空堀の遺構は大規模なものです |
空堀の外側には土塁が走っています |
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城の西側の空堀と土塁 |
空堀と土塁が走っています |
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住所 |
石川県金沢市松根町 |
形式 |
連郭式山城 (標高308m/比高100m) |
遺構 |
曲輪、土塁、空堀、竪堀 |
築城者 |
不明 |
施設 |
石碑 案内板 トイレ |
城主 |
一向一揆(洲崎兵庫) 佐々氏(杉山主計) 前田氏 |
駐車場 |
無料 |
築城年 |
不明 |
文化財 |
国史跡 |
廃城年 |
不明 |
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