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野尻城跡には徳仁寺があります |
野尻城は、富山県南砺市野尻にあった平城です。
南砺市指定史跡となっています。
この城がいつ築城されたのかは不明ですが、木曽義仲と共に平家と戦った豪族野尻氏がこの地に拠っていたと言われています。野尻氏は藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲むとされています。野尻氏は、井口城城主井口氏や福光城城主石黒氏をや宮崎氏とは同族と考えられています。南北朝期初頭に野尻氏は越中国守護名越時有の子名越時兼に従い、井口氏とともに中先代の乱に参加して、京都に攻め上ろうとしましたが大聖寺城の戦いで敗れて失敗に終わっています。また足利尊氏の御教書を得た越中守護井上俊清に従って挙兵して越中国司中院定清と戦い石動山にて敗死させています。
この際に石動山天平寺も焼亡しています。
正平年間(1346年 - 1370年)には南朝方で反幕府最強硬主義者であった越中守護桃井直常が越中国庄ノ城を拠点として周辺を支配すると、野尻氏は井口氏らと共に直常の配下となり各地を転戦している。井口城とともに野尻城も庄ノ城の支城となっています。正平17年(1362年)、同24年(1369年)と二度にわたって北朝方の攻撃を受けています。この頃になると南朝方は衰退してしまっていたので、おそらくは野尻氏も衰微してしまったか、北朝方に降伏したかではないかと思われます。
その後の野尻氏の動向はよくわかっていません。文明13年(1481年)には野尻城が一向一揆勢に攻められて城主が降伏したとされています。同年には礪波郡に勢力を誇った越中国福光城主石黒光義が一揆勢力の瑞泉寺らと戦い敗退(田屋川原の戦い)して、福光城も落城し、石黒宗家は壊滅してしまったのですが、その余波を受けたのでしょう。その後は当城は一向一揆の勢力下にあったらしく、その後も利用されていたと思われ、廃城年代は戦国時代後期まで下ると思われます。とすれば廃城となったのは佐々氏が越中を治めるようになった頃か、あるいは前田氏が越中に入った頃か。
現在の城跡には徳仁寺が建ち、城の遺構と思われるようなものは見あたりません。
大きな石碑と案内板が建てられているのがここに城があったことを示す唯一の印です。
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野尻城跡の石碑 |
野尻城跡の案内板 |
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住所 |
富山県南砺市野尻 |
形式 |
平城 |
遺構 |
なし |
築城者 |
野尻氏 |
施設 |
説明板 石碑 |
城主 |
野尻氏 一向一揆 |
駐車場 |
特になし |
築城年 |
不明 平安時代後期か |
文化財 |
南砺市指定史跡 |
廃城年 |
戦国時代後期 |
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