|
井口城跡の石碑 |
井口城(いのくちじょう)は、富山県南砺市池尻にある平城です。南砺市指定史跡となっています。
この城の築城年代は明確には判明していません。鎌倉時代後期にこの一帯を支配していた豪族井口氏がこの城を築かれたものと思われます。
井口氏は、「越登賀三州志」によると藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲む豪族で、福光城主石黒氏、野尻城主野尻氏や宮崎氏などの越中国の有力国人の多くは井口氏と同族と言われていますが、詳細は不明です。
南北朝期初頭、建武2年(1335年)7月、井口氏は越中国守護名越時有の子名越時兼と共に中先代の乱に参加して、京都に攻め上ろうとしています。しかしこの時は名越軍が大聖寺城で敗れて挙兵は失敗に終わっています。
また足利尊氏の御教書を得た越中国守護普門年清に従って挙兵して同年12月、越中国国司中院貞清と戦いこれを石動山にて敗死させています。それにしてもけっこう活躍していますね。
正平年間(1346年 - 1370年)には、南朝方の有力者だった越中国守護桃井直常が越中国庄ノ城を拠点として周辺を支配するようになり、井口氏もこれに従い井口城は庄ノ城の支城となっています。井口氏は、野尻氏らと共に桃井直常の配下として各地を転戦しています。康安2年(1362年)には桃井直常が信濃国より越中国へ侵入して兵を集め、北朝方であった加賀国守護の富樫氏を
|
宗長親王の歌碑 |
攻めるも撃退されて井口城へと退却しています。その後応安2年(1369年)に桃井直和(直常の子)が再び富樫氏を攻めていますが再度失敗に終わり、逆に能登国守護の吉見氏に追撃されて同年9月24日、井口城は越中国千代ヶ様城と共に落城しました。桃井勢はこれに伴い越中国松倉城へと逃れ、井口氏もそれに従って越中国大家庄(現富山県下新川郡朝日町大家庄)へと拠点を変えたと考えられます。しかしその時期が井口城が落城した時なのか、それ以前なのか、あるいは南北朝期より前に既に移っていたのかは判然としません。もしくは元々同族が大家庄に居住していたという可能性もあるかも。
なお、井口城は発掘の結果、室町時代まで使用されていた形跡があると言われています。しかし誰が使っていたのでしょうか。
城の規模は、昭和63年~平成3年にかけて実施した発掘の結果、東西135m、南北99mと判明しています。東西に長い方形の主郭を堀で囲い、堀を挟んだ東側には出丸があったことが判明しています。また川跡が城の西側にあることから堀は水堀であったと考えられます。
現在の遺構としては、主郭の土塁の形跡は確認できますが、郭内が墓地になっています。堀は水田へと形を変えており、その形跡は確認できません。しかし何でわざわざ城跡を墓地にするのでしょうか。本丸跡には立派な石碑と案内板が建っています。
それと宗長親王の歌「雪つもる越の白山 冬深し 夢にも誰か思いおこさん」と刻まれた碑があるのはどうしてでしょうか。
南朝方だった桃井氏ゆかりの城だからかな。
|
|
井口城跡全景 |
井口城説明板 |
|
住所 |
富山県南砺市池尻 |
形式 |
平城 |
遺構 |
郭 |
築城者 |
井口氏 |
施設 |
石碑 説明板 |
城主 |
井口氏 桃井氏 |
駐車場 |
特にない |
築城年 |
鎌倉時代後期 |
文化財 |
南砺市指定史跡 |
廃城年 |
室町時代 |
|
|