 |
小丸山城遠景 |
小丸山城は、石川県七尾市馬出町にあった平山城です。七尾市付近は、従来から能登国の中心地であり、畠山氏時代の能登国は七尾城を根拠としていましたが、七尾城は上杉氏によって1577年(天正5年)に落城し、さらに織田軍の能登国への侵攻により、1581年(天正9年)に七尾城は織田軍の手に落ちてしまいます。この際に織田信長は前田利家を越前国府中から能登国の領主に昇格させています。そして利家はとりあえず七尾城に入城していますが、七尾城は山城のため統治には不便だったので、利家は七尾港に近い所口村の小丸山に城を築くことにしました。
小丸山城は1582年(天正10年)に築城され、利家は小丸山城に入城し、七尾城には城代を配置しています。
さらに城の周囲には山の寺寺院群を建立し、城の守りを固めているのが印象的です。これらの寺院は有事の際は野戦陣地として利用するつもりでいたようです。
1583年(天正11年)には利家が尾山城(金沢城)へ本拠を移したため、利家の兄である前田安勝が七尾城代・小丸山城主として城に居住しています。その後、1593年(文禄2年)には利家の次男である前田利政が小丸山城に入城して能登一国を支配するようになります。
ところが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の合戦の際には、前田利政が兄の利長と行動を共にせず、西軍方についたと見なされ、戦後には能登の所領を没収されています。
その後は能登国は前田利長の直轄領となっています。
 |
小丸山城本丸跡 |
1615年(元和元年)には一国一城令に従い廃城となっています。
しかし本来は一国一城令では一国に一城だけを残す事が認められているはずですし、能登国の中心は七尾であり、この城を残して他の城は廃城にするという考え方もあったと思うのですが・・・。
結局、一国一城令により、前田家は、加賀国には金沢城と小松城、越中国では富山城を存続させています。
小松城は、前田利常の隠居城として存続しているのですが、これは例外中の例外です。
なお大きい城では加賀国では大聖寺城、越中国では高岡城と魚津城が廃城となっています。
現在の小丸山城跡は、小丸山公園となっていますが、遠目からみても城跡だとわかる地形となっています。
もっとも開発により当時の地形とはかなり変わってしまっているのだと考えられます。
現在の遺構としては、郭跡としては本丸、宮丸、天性丸が残っていますが、大念寺山の砦跡は開発により遺構が破壊されていて現在では明確ではありません。また本丸と天性丸の間の空堀が残っています。
現在の第1公園が本丸跡、第2公園が天性丸跡、七尾市愛宕山相撲場のあたりが宮丸跡となります。公園への通路には大規模な石垣がありますが、この石垣が小丸山城があったときからの遺構なら萌えなのですが・・・。しかしどう見ても後からの石垣に思えますね。
本丸跡の郭はけっこう広い面積を持っていて、池もあり庭園となっています。また本丸の南西隅と南東隅が小高くなっているのは実は櫓台の跡です。巽櫓台跡に日像上人の銅像が設置されているのはどうしてでしょうか。日像上人が京都への布教活動の途中、番匠家の廻船問屋の船で七尾へ上陸したことに由来があるようです。また坤櫓台跡には親子句碑があります。
 |
 |
小丸山公園 |
小丸山城本丸への通路 |
 |
 |
相撲場のあたりが宮丸跡です |
小丸山城本丸にある案内板 |
 |
 |
小丸山城縄張り図 |
小丸山城本丸跡 |
 |
 |
小丸山城本丸跡にある庭園 |
小丸山城本丸跡からの七尾市街 |
 |
 |
小丸山城本丸跡にある巽櫓台跡 |
小丸山城巽櫓台跡に立つ日像上人像 |
 |
 |
小丸山城本丸跡にある坤櫓台跡 |
小丸山城坤櫓台跡に立つ親子句碑 |
 |
 |
小丸山城本丸跡と天性丸跡を結ぶ架橋 |
小丸山城天性丸跡は桜の名所です |
 |
 |
小丸山城天性丸跡 |
本丸跡と天性丸跡の間の空堀跡は氷室跡地です |
 |
 |
本丸跡と天性丸跡の間の空堀跡 |
宮丸跡にある相撲場でかつてインターハイが開催されました |
|
住所 |
石川県七尾市馬出町 |
形式 |
梯郭式平山城 |
遺構 |
郭、空堀 土塁 櫓台跡 |
築城者 |
前田利家 |
施設 |
公園 説明板 石碑 架橋 トイレ |
城主 |
前田利家 前田安勝 前田利政 |
駐車場 |
あり |
築城年 |
天正10年(1582年) |
文化財 |
なし |
廃城年 |
元和元年(1615年) |
|
|