国史跡 前田利長墓所
概 要
前田利長公墓所
前田利長公墓所
前田利長墓所は、富山県高岡市大野にある加賀藩2代藩主前田利長の墓所として国史跡に指定されています。墓所の周辺は「前田公園風致地区」として風致地区に指定されています。
墓所の南側には、繁久寺(曹洞宗)があります。
この繁久寺は御廟寺として造営された寺院で、加賀藩から寺領を与えられて、代々墓を守ってきたお寺です。
前田利長墓所は、1614年(慶長19年)に高岡城で没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営した墓所です。周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将の墓所としても全国的にも珍しく、その規模は日本でも最大級のものです。
墓碑は戸室石製の三重墓壇の上に花崗岩製の笠付墓標がある構造になっていて、石柵と濠に囲まれています。通常はその外から見ることしかできず、墓所はこの立入禁止の内郭と参道の設けられた自由に通行できる外郭からなっています。
江戸時代の古図には外郭は輪郭型に内郭を取り囲んで、南面を除く三面に堀を備えた姿で描かれており、有事の際には二重に堀を構えた高岡城防衛の砦としての使用も考慮されていました。
しかし、今は内郭の堀は縮小され、外郭のほとんどは隣接する高岡市立芳野中学校のグラウンドや高岡市営前田庭球場のテニスコートなどになり、内郭の南側に一部が参道として残るのみとなっています。
水堀と石柵
水堀と石柵
と言っても、現在でも墓地の敷地としては約10,000m2が残っていますが、2007年に行われた調査の結果、造営当初の墓所の面積は、前田家の古文書のひとつにある1万坪という記述とも合致する約33,000m2であることが確認されています。これは現存の3倍以上の規模であり、戦国武将の墓としては国内最大級になります。
南西(芳野中学校)側、南(繁久寺)側、東(前田庭球場)側に出入口があり、正面口となる南西側の出入口は八丁道に繋がり、菩提寺である瑞龍寺と向かい合う形で結ばれています。
前田利長墓所は、1965年1月1日、富山県指定史跡に指定され、2009年2月12日には金沢市の野田山にある前田家歴代の墓所とともに「加賀藩主前田家墓所」の名称で国史跡に指定されています。また、2007年に発掘調査や地中レーダー探査が行われた結果、墓碑の土台規模が金沢市の前田家墓所の造墓原理に合致していることや、外堀が存在したことが確認されるなどの成果を上げています。
瑞龍寺と墓所をつなぐ八丁道(はっちょうみち)は、富山県高岡市東上関にある参道です。高岡の開祖である加賀藩2代藩主前田利長の墓所である前田利長墓所とその菩提寺である高岡山瑞龍寺(国宝)とを東西に結んでいます。長さが八丁(約870m)であることからこの名がつけられています。
前述するように利長の三十三回忌にあたる1646年(正保3年)に3代藩主前田利常により、前田利長墓所が造営された際に、墓所とその西にある瑞龍寺とを結ぶ参道として整備されたものです。参道に沿って堀が設けられ南面は石垣積みであったとする史料(微妙公御夜話異本)があり、参道とは言うものの、有事の際にはいずれも周囲に堀を構えた城砦となる瑞龍寺と墓所とを繋いで、高岡城南方の外郭防衛線となるべく造成されたものと考えられています。
墓所入口 墓所参道には灯籠がズラリと並んでいます
墓所入口 墓所参道には灯籠がズラリと並んでいます
石灯籠は高さ6.3m 鳥居と大灯籠
石灯籠は高さ6.3m 鳥居と大灯籠
御廟は立入禁止です 御廟側から鳥居と大灯籠を見る
御廟は立入禁止です 御廟側から鳥居と大灯籠を見る
内堀西側 大灯籠
内堀西側 大灯籠
鳥居 前田利長公墓碑
鳥居 前田利長公墓碑
内堀東側 内堀北側
内堀東側 内堀北側
内堀西側 西側から見た笠付墓標
内堀西側 西側から見た笠付墓標
内堀西側 内堀南側と石橋
内堀西側 内堀南側と石橋
石灯籠 繁久寺
石灯籠 繁久寺
国史跡 前田利長公墓所
住所 富山県高岡市大野 形式 墓所
遺構 墓碑、水堀、石柵、郭 墓所の面積 約10,000m2
非現存遺構 外濠 墓碑全体の高さ 約11.75m
駐車場 観光第1駐車場(無料) 造営主 前田利常
文化財 国史跡 造営年 1646年(正保3年)
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