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高松城月見櫓 |
高松城は、香川県高松市にある輪郭式平城です。高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐1国の領主となった生駒親正によって、「野原」と呼ばれた港町に築かれています。ただし、現在見られる遺構は、江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。
近世城郭としては、日本で最初で最大の海城となります。
本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のように「唐造り」でしたが、老朽化により明治17年(1884年)に解体されてしまい、現存していません。現在は、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存し、城跡は「玉藻公園」として整備されています。国史跡にも指定されています。また日本100名城(78番目)に選定されています。
城郭の形式は輪郭式平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、3重に堀が廻らされていました。
かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠・中濠・内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっていて、水軍の運用も視野に入れ設計されていた日本初の本格的な海城と言えます。縄張りは黒田孝高が手掛けたといわれ、細川忠興、小早川隆景、藤堂高虎などによるとも言われています。
高松城をはじめとする海城は海上封鎖が難しく、水攻めや水断ちといった攻城手段が使えないため戦争時の篭城や物資の搬入、脱出ができ、近世の縄張りとしては有利であったと言われています。
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高松城艮櫓 |
しかし、版籍奉還以後廃城になった高松城は明治以降の都市化の波に呑まれて、現在では海側に新しい道路(水城通り)が通り、ほとんどの建物が取り壊され、内堀と中堀の一部を除いて埋め立てられています。最盛期には66万m2(約20万坪)あった城の総面積も、現在では約1/8の7万9587m2(約2万4千坪)にまで減少しています。しかし現在でも外堀と内堀には海水が引き込まれており、往時の名残を残している。そのため、堀には牡蠣などの貝が生息し、養殖の鯛も放流されています。
本丸は城のほぼ中央に位置し、周りを内堀に囲まれ他の曲輪とは完全に独立しています。外部とは、長さ16間の木造の鞘橋一本だけで繋がっていて、この橋を落とせば内部にいる人間は逃げ場を失う造りとなっています。
本丸には御殿などの居住施設はなく、多聞櫓で囲まれた天守があるのみです。その天守台は本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守が海上に浮いているように見えたといわれています。本丸にあった天守は、独立式層塔型3重4階、地下1階、初層平面が東西13間2尺(約26.2メートル)×南北12間2尺(約24.2メートル)、高さ13間半(約24.5メートル)にもおよんだといわれていて、現存している3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル)や松山城(高さ約20メートル)の天守を凌ぎ四国最大の規模でした。また、4階平面が3階平面より大きい、いわゆる唐造で、1重めも天守台から外には張り出させて石落としを開いていたと考えられています。ほかに、1重目と2重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の火灯窓などの特徴を持っていました。
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高松城水手御門と渡櫓 |
創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが、寛文11年(1671年)の松平氏による大改修の際に、白漆喰総塗籠の天守に改築されたと見られています。天守は老朽化により明治17年(1884年)に解体され、1920年に松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立されましたが、2006年より始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟は全て解体されています。
三の丸には松平藩時代の披雲閣と呼ばれる現在の2倍の書院風建物がありました。1872年(明治5年)に老朽化によって取り壊されましたが、当時の金額で15万円と3年の歳月をかけて1917年(大正6年)に再建されています。昭和天皇が宿泊したり、アメリカ軍に接収されたりしましたが、高松市が譲り受けて、現在では貸会場として市民に利用されています。また披雲閣の再建に合わせて内苑御庭という枯山水の庭が作造されています。城の遺構としては、三の丸入り口には桜御門がありましたが、1945年(昭和20年)の高松空襲で焼失しています。披雲閣は2012年(平成24年)5月18日に文化審議会より文部科学大臣に対し国の重要文化財への指定を答申されています。
北の丸(北新曲輪)は寛文11年(1671年)の松平氏による大改修で、御殿である旧披雲閣が三の丸に移されたため、防衛上東の丸とともに増設されています。通路状の曲輪には、延宝4年(1676年)に隅櫓として月見櫓(着見櫓)が建てられ、その後海城に特有の水手御門(みずのてごもん)、渡櫓、鹿櫓が建てられました。
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高松城鞘橋 |
東の丸は、寛文11年(1671年)の松平氏による大改修で、北の丸と共に増設され、ここには米蔵や艮櫓、巽櫓などが建てられています。しかし現在では東の丸の大半は消失していて、ここにあった艮櫓は桜の馬場の太鼓櫓跡に移築されていて、艮櫓の櫓台やそれに続く石垣以外は埋め立てられて、県民ホール(アルファあなぶきホール)や香川県立ミュージアム、松平公益会、城内中学校などが建っています。
東の丸の敷地の一部にあたる高松市立城内中学校が2009年3月31日に閉校し、同年6月30日校庭南東部でプールの解体作業中、東の丸と中掘の間の石垣が出土しています。
桜の馬場は、かつてはL字型でしたが、その後半分が現在の中央通りの敷地になるため埋め立てられています。その名のとおり桜が植えられ、馬場があった地であり、現在は春になると桜の花見の名所になっています。寛文11年(1671年)の大改修までは桜の馬場の南中に大手門があったのですが、御殿であった旧披雲閣が三の丸に移されたためこれを廃して、新たに桜の馬場東端に旭橋と旭門を設けています。
桜の馬場内にはかつては虎櫓、鳥櫓、太鼓櫓などがありましたが現在ではそのいずれも現存しておらず、現在ある艮櫓は昭和40年(1965年)に高松市が東の丸から太鼓櫓跡に移築したものです。
西の丸は、現在は埋め立てられ、JR高松駅や西の丸町がその地に当たります。サンポート高松整備事業に伴う西の丸の発掘調査では多くの遺構が発見されていますが、その後一般に公開されることもなく埋め戻され、周りと同様に市街地化しています。
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高松城水手御門と渡櫓 |
城跡は、現在では高松市立玉藻公園として有料で開放されています。前述するように天守は現存せず、重要文化財には月見櫓、艮櫓、水手御門、渡櫓、披雲閣が指定されていて、毎週日曜日、月見櫓と渡櫓の中が一般公開されています。
2003年夏、当地区が国の構造改革特区に申請されたことで、それまで「資料が写真一枚しかない」ことを理由に復元の拒否をしてきたとみられた文化庁が復元に対する考えを軟化させたため、その後、高松市は整備検討委員会を設置し、2010年の着工を目指して準備を進めています。
高松城天守に関する資料は明治17年(1884年)までに撮影された1枚の写真のみとされていましたが、2005年秋頃により鮮明な2枚目の高松城天守の古写真(1882年撮影)がイギリス・ケンブリッジ大学で発見されました。このことが更なる資料発見の可能性や復元運動につながることが期待されています。一方、天守台の石垣が老朽化してきたため、その対策として2006年より石垣の解体修理工事が実施され玉藻廟も解体されています。この修理作業は将来の天守復元も視野に入れ、石垣の内部構造の確認と石垣の積み直し工事が実施されています。
2009年3月、生駒家の家紋(波引車)を模した瓦が堀底から初出土しました。天守に使用されていた可能性が高いと考えられています。これまでは松平家のものしか出土しておらず、生駒氏が築城した高松城、丸亀城、引田城の跡で家紋が入った瓦が出土するのは初めてです。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(77番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
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高松城艮櫓、水手御門、渡櫓の説明板 |
かつてはこの石垣が海に面していました |
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高松城玉藻公園の看板 |
高松城水門 |
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高松城水門の説明板 |
高松城天守台 |
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高松城天守台 |
高松城天守閣復元に関する説明板 |
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高松城天守台は工事中です |
桜御門跡 |
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桜御門跡 |
桜御門跡 |
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高松城艮櫓 |
高松城披雲閣 |
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高松城披雲閣 |
高松城内苑御庭 |
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高松城披雲閣 |
高松城旭門 |
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高松城月見櫓・水手御門・渡櫓 |
高松城月見櫓・水手御門・渡櫓 |
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高松城月見櫓 |
高松城月見櫓 |
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住所 |
香川県高松市玉藻町2番1号 |
電話 |
087-851-1521(玉藻公園管理事務所) |
開館時間 |
西門 : 日の出~日没
東門 : 4月~9月 7時00分~18時00分
10月~3月 8時30分~17時00分 |
休館日 |
12月29日~12月31日 |
天守閣入場料
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大人 200円
小人(小・中学生) 100円
団体(20人以上) 1人につき上記の金額の3割引の額 |
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住所 |
香川県高松市玉藻町2番1号 |
形式 |
輪郭式平城 非現存天守:独立式層塔型3重4階地下1階 |
遺構 |
櫓、門、渡櫓、石垣、堀 |
築城者 |
生駒親正 |
施設 |
公園 |
城主 |
生駒氏、松平氏 |
駐車場 |
無料駐車場有り(57台) |
築城年 |
天正18年(1590年) |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
明治2年(1869年) |
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