千石町遺跡
概 要
千石町遺跡発掘現場
千石町遺跡発掘現場
干石町遺跡は、富山市中心市街地の千石町地内にあります。
既にこれまでの調査で、室町~江戸時代を中心とする集落跡が確認されていましたが、平成27年の宅地造成に先立つ調査では、それよりも古い時代の弥生時代中期(約2,100年前)の方形周溝墓5基、溝を検出しました。
方形周溝墓は、弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達しています。その後、中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がっています。
近畿地方では木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場しています。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓と呼びます。
平面形に多様さや石列は見られません。
供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わります。
方形周溝墓は1964年に大場磐雄が東京都内にある宇津木向原遺跡で調査したものに命名したものが学界に報告されたのが初出であるが、それ以前にも各地で性格がつかめないまま確認されていました。最近では、方形低墳丘墓(ほうけいていふんきゅうぼ)と呼ばれることも多くなっています。また、従来、古墳時代初頭まで続く墓制とされた方形周溝墓について、近年の土器編年などの研究の進展によって、初期古墳や前期群集墳としてとらえる考え方が出てきたのに伴って、方形墳と呼ぶ研究者も現れるようになっています。
方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられます。しかし、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていたと考えられます。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。溝に埋葬されることもあります。
弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播しています。弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流となっています。
墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられていますが、北部九州では方形周溝墓は極めて少ない。福岡県東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例があります。
富山県下における弥生時代中期の方形周溝墓は、これまで県西部のみで確認していましたが、今回初めて県東部の富山市中心市街地からみつかりました。周溝からは副葬品の弥生士器が出士しました。
土器はすべて紀元前2世紀後半頃に作られたものてあることから、墓は短期間に造営されたと考えられます。
今回の調査地から南西へ100m地点で、地下6mから弥生時代中期(約2,300年前)の洪水で流され河川跡に埋没した樹木6本が発見されました。今回の調査地は当時、安定した高台部にあたります。
弥生時代中期の人々は、この高台を墓域として利用したと推測されます。

方形周溝墓第3号墓周溝からの弥生土器出土状況 縄文時代晩期の土器
方形周溝墓第3号墓周溝からの弥生土器出土状況 縄文時代晩期の土器
弥生土器(甕の一部) 方形周溝墓の発掘状況
弥生土器(甕の一部) 方形周溝墓の発掘状況
弥生土器 弥生土器(壺)
弥生土器 弥生土器(壺)
弥生時代中期の壺 弥生時代中期の甕
弥生時代中期の壺 弥生時代中期の甕
弥生土器(甕) 弥生時代中期の壺
弥生土器(甕) 弥生時代中期の壺
千石町遺跡
住所 富山県富山市千石町地内
電話 富山市教育委員会 埋蔵文化財センター  Tel076-442-4246  Fax076-442-5810
公開日 非公開
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千石町遺跡マップ
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