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能登国分寺跡復元南門 |
能登国分寺(のとこくぶんじ)は、かつて能登国(石川県七尾市国分町)に存在した仏教寺院です。1974年(昭和49年)に能登国分寺跡附建物群跡」として国史跡に指定されています。
能登国分寺は、かつてこの地方を支配していた能登臣(のとのおみ)の一族が白鳳時代末に建てた大興寺(だいこうじ)を、承和10年(843年)に国分寺として昇格させたものです。
能登国は、養老2年(718年)5月2日に越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して成立していますが、天平13年(741年)12月10日には越中国に併合されています。実はこの時に聖武天皇が国分寺建立の詔を発布しています。
能登国が越中国から再び分立したのは天平宝字元年(757年)のことです。このように分国や吸収合併をくり返した能登国は、聖武天皇の詔が発せられてから、なんと100年の後にようやく国分寺が創建されたわけです。つまり能登国は当時はかなり困窮していてとても国分寺を新設できるような経済的な余裕がなかったようです。そのため既存の大興寺を昇格する形で国分寺としたという訳でしょう。これは、能登国司として赴任した春枝王の采配によるもので、
就任後およそ1年で実現させています。
しかし、その約40年後の元慶6年(882年)には、嵐によって伽藍のほとんどが倒壊してしまい、その後も五重塔は再建されることがなかったようです。やはり困窮していたということでしょう。
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能登国分寺跡塔跡 |
天文元年(1532年)には、能登守護畠山義総が国分寺に米一石を寄進したと記録があるので、この時点でもまだ廃寺にはなっていなかったようですが、天正5年(1577年)に上杉謙信が能登国に攻め込んできて、能登畠山氏の居城七尾城が落城し、その折に国分寺も焼き払われてしまい、廃寺になったようです。江戸時代の地図には既にこの位置には何も描かれていないので、再建されることもなかったということになります。
日本中の各国にある国分寺のなかでも能登国分寺は悲運の寺であったようです。
昭和45年(1970年)より3ヶ年に亘る調査で国分寺の全貌が明らかにされていて、南北208.8m、東西183.9m、ほぼ2町四方の寺域を持つことが判明しています。中軸線に沿って、南大門の48m北に中門、それに連なり東西にのびる築地塀があり中門の北48mの地点の東側に塔、西側に金堂が、心々の距離48mで並ぶ。さらに北30mに講堂が配置され、法起寺式伽藍配置を持っています。塔の柱間は1.5mと小さく、三重塔かと思われます。
現在は、南門と塀が復元されていて、他の遺構跡もその位置が示されていて、国分寺の全容が伺えるように整備されています。
実際に現地を見て回るとあまり寺という感じは受けません。というのは国分寺というものはたいていはもう少し台地上の地形に置かれている場合が多いのですが、ここは水田の中にあってしかもやけに低地にあるのは、もともとあった大興寺を転用したからでしょう。もう一つ気になるのは塔跡で国分寺にある塔はもう少し大規模な塔である場合が多いのですが、塔台の規模が小さいのであまり大きな塔は作れそうもないのです。まあこれも要するに資金不足の為でしょう。
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能登国分寺跡回廊跡 |
能登国分寺跡講堂跡 |
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能登国分寺跡金堂跡 |
能登国分寺跡北門跡 |
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能登国分寺跡中門跡 |
能登国分寺跡復元塀 |
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能登国分寺展示館 |
能登国分寺公園案内図 |
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能登国分寺跡石碑 |
能登国分寺南門 |
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南側空堀・・・ではなくて溝跡でしょうね |
能登国分寺復原南門 |
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南側溝跡と塀跡 |
復原南門前の橋と溝跡 |
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南西側溝跡と復原塀 |
南西側の復原塀と溝跡 |
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南西側溝跡 |
南側の内溝跡と回廊跡 |
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回廊跡 |
五重塔の礎石 |
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講堂跡 |
講堂跡 |
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五重塔跡 |
回廊跡 |
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回廊外側の溝跡 |
北門跡と塀跡 |
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北側の溝跡及び塀跡 |
北門の塀跡と溝跡 |
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北門跡から見た南門及び塀の様子 |
北門側から見た復原南門と講堂跡 |
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回廊跡と溝跡 |
北側の回廊跡と溝跡及び東側の塀跡 |
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北側の回廊跡と溝跡 |
復原塀の内側 |
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南側の回廊跡と溝跡及び金堂跡 |
南側の回廊跡と溝跡 |
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金堂跡 |
南側の復原塀 |
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住所 |
石川県七尾市国分町リ部9 |
TEL |
0767-52-9850 |
休館日 |
月曜日(祝日の場合開館)、祝日の翌日、年末年始 |
開館時間 |
午前9時~午後5時 (入館は午後4:30まで) |
入館料 |
200円(高校生以下無料) |
駐車場 |
無料 |
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所在地 |
七尾市国分町及び古府町 |
種別 |
仏教寺院 |
遺構 |
建物跡 回廊跡 堀 門跡 塀跡 五重塔跡 |
形式 |
法起寺式伽藍配置 |
再建造物 |
門 塀 |
創建者 |
能登国司春枝王 |
施設 |
展示館 説明板 トイレ 無料駐車場 |
創建年 |
承和10年(843年) |
文化財 |
国史跡 |
廃寺年 |
天正5年(1577年) |
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