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松山城天守 |
松山城は、愛媛県松山市にある現存天守を持つ連郭式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。日本100名城(81番目)に選定されています。
松山城は、松山市の中心部、勝山山頂に本丸を構える平山城であり、日本三大平山城にも数えられています。現在、山頂にある大天守は、現存12天守の一つです。
この天守は、姫路城と同じく、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式天守で、日本三大連立式平山城にも数えられています。
幕末に再建された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、当時の土木技術としては特筆される深さ44mにおよぶ本丸の井戸などが保存されています。敷地一帯は国史跡に指定されていて、建造物21棟は国重要文化財に指定されています。ミシュランの観光版(ギード・ベール)日本編では二つ星に選定されています。
松山城天守は、創建当時には五重天守が建てられていたとされており、1642年に三重天守に改修しています。
それは、本壇がある標高132mの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれていますが、本当の理由は不明です。その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失してしまいます。
現在の大天守は、1852年に石垣普請とともに再建工事が完了し、安政元年(1854年)に落成した3代目天守で、連立式層塔型3重3階地下1階構造です。
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松山城野原櫓 |
さすがに時期が遅いため普請の精度も材質も高品質といえ、建材には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用されています。切込みハギの石積み天守台(8間×10間)は三重天守としてはかなり大規模なものといえ、その内側に地下1階が造られています。3重3階の木造内部には層塔型天守の特徴とも言える武者走りが各階に設けられており、その内側である身舎には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、かつ、床の間を設けています。
外部は1・2階に黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、屋根には千鳥破風や軒唐破風が付けられていて、、3階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には、格式を高める目的で実用的ではない外廻縁、高欄が付けられているなど、外観の意匠は幕末再興とは思えぬほど古式なものですが、要するに以前の天守を忠実に再現したのでしょうか。なお、鯱を含め屋根は瓦葺です。
この天守は、日本最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中では唯一の親藩松平氏による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられています。
1602年(慶長7年)、伊予国正木城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予国20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手したのが最初です。1603年(慶長8年)10月には嘉明がこの地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生しました。
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松山城乾櫓 |
ところが1627年(寛永4年)に、嘉明は松山城の完成前に会津藩40万石へ加増転封となり、蒲生忠知が出羽上山藩4万石から伊予松山24万石の藩主になっています。これは一見大幅な加増のようですが、実は忠知の兄忠郷は会津藩60万石の藩主だったのですが、寛永4年(1627年)に嗣子無くして早世したため、本来ならば蒲生氏は断絶してもおかしくなかったのですが、母が徳川家康の娘であるということから、幕府の計らいを受けて忠郷の弟に当たる忠知が家督を相続することを許されたというものです。
ですから実質的には大幅な減封と言えますが、この際はやむを得なかったと言えます。忠知は松山城の完成に特に力を注ぎ、二之丸を整備しています。
しかし1634年(寛永11年)8月、忠知が参勤交代の途中に逝去し、ついに蒲生家が断絶することとなってしまいます。そのため大洲藩主、加藤泰興が松山城を預かり松山城在番となります。ところが泰興が城在番中に替地の申し出が、幕府になされています。これは風早郡・桑村郡のうちの大洲領は飛び地のため、伊予国松山領の一部と替地して欲しいと申し出たもので、1636年(寛永13年)8月に幕府が公許しています。これにより松山領の伊予郡17村・浮穴郡20村が大洲藩領とされたわけです。これが原因で入会山紛争、砥部騒動などの事件が発生していて大庄屋排斥騒動に発展し、最終的には大庄屋が廃止されています。
1635年(寛永12年)7月に松平定行が伊勢桑名藩11万石から伊予松山15万石の藩主となり、これ以降松山藩は一貫して四国の親藩として235年間続き、明治維新を迎えています。
1642年(寛永19年)、創建当初五重であったという天守を、定行が三重に改築しています。
1647年(正保4年)、寛永の鎖国後、長崎に2隻のポルトガル船が入港したため、定行が家臣とともに海上警備に赴いています。この時に持ち帰った南蛮菓子の製法が、銘菓タルトの原型とされます。
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松山城二の門 |
1784年(天明4年)、天守を含む本壇の主な建物が、なんと落雷により焼失しています(泣)。そこで1820年(文政3年)から当時の藩主松平定通が再建工事に着手しています。
1828年(文政11年)、定通が文武の振興のため、藩学の拠点として修来館を拡充し明教館を創設しています。
1854年(安政元年)2月8日、時の藩主・松平勝善が天守本壇を落成させています。現在の天守などの遺構はこの際に再建されたものです。
1858年(安政5年)7月、幕府の命により、江戸の品川に砲台を築造しています。
1864年(元治元年)6月、藩主松平勝成は幕府の命を受け、禁門の変に出陣。薩摩藩・桑名藩とともに長州藩と戦い、御所南門などの警備を行っています。さらに同年の第1次長州征伐では一番手の出兵を命ぜられて、長州藩が恭順の意を示したため、一応の勝利をおさめています。
1866年(慶応2年)6月、松平勝成は幕府の命により第二次長州征伐に出陣。しかし幕府軍の足並みは揃わず、惨敗を喫した上に14代将軍徳川家茂が同年7月20日に大坂城にて薨去して、停戦となっています。これで事実上、徳川幕府は滅んだと言ってもよい状況となったと言えます。1867年(3年)には藩主・松平定昭が史上最年少の22歳で幕府老中職となっています。しかし大政奉還により辞任しています。1868年(慶応4年)、松平定昭は鳥羽・伏見の戦いで前将軍徳川慶喜に従ったために朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられています。さらにすべての官位(従四位下左近衛権少将兼伊予守)を剥奪され、養父勝成が再勤することとなっています。しかし1868年(明治元年)には土佐藩山内氏が松山城を占領し、藩主勝成は恭順の意を示し常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免されています。同年、太政官布告により源姓松平氏と葵紋を返上し、菅原姓久松氏に復姓しています。
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松山城三の門 |
1870年(明治3年)、松山城三之丸が焼失、1872年(明治5年)には二之丸も焼失しています。
1871年(明治4年)、廃藩置県により松山藩から松山県となる。
1873年(明治6年)の廃城令が発令されましたが松山城本丸は破却されず、主に麓の城門・櫓・御殿が払い下げられるが入札されず、解体されたとみられる(大蔵省所管)。同年、愛媛県が成立しています。
1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。本丸が使用されなかったのは、標高が高いから不便だったからでしょう。
1923年(大正12年)、松山城本丸が久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、市の所有となっています。
1933年(昭和8年)7月9日の松山城放火事件により小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失しています。
1935年(昭和10年)には天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されています。
しかし残念ながら戦時中の空襲により天神櫓、馬具櫓、太鼓櫓、巽櫓、乾門、乾門東続櫓、太鼓門、太鼓門続櫓、乾門西塀、太鼓門東塀、太鼓門西塀が火災で焼失しています。さらに1949年(昭和24年)2月27日には不審火で筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓の3棟の建造物(旧国宝)が焼失しています。
戦後になり、1952年(昭和27年)に、二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国史跡に指定されています。1955年(昭和30年)にはロープウェイが設置され、1966年(昭和41年)にはロープウェイに平行してリフトが登城客の利便を図るため設置されています。
明治維新後、本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなかったのですが、昭和に入り放火や戦災により門や櫓などが焼失してしまいましたが、写真や国宝指定作業における正確な図面などが残されていたことから、昭和40年代から本格的な木造による復元工事が行われています。1958年(昭和33年)には馬具櫓を鉄筋で復興しています。1968年(昭和43年)には小天守・南北隅櫓・多聞櫓・十間廊下を木造で復元していて、その後も次々と櫓や門を木造復元しています。
1989年(平成元年)に、松山城山公園が日本さくら名所100選に選定されています。
1992年(平成4年)4月に、大井戸などの遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成。
2004年(平成16年)10月より開始した大天守ほか6棟の改修工事が2006年(平成18年)11月末に終了しています。
改修を記念して、大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の愛称が公募によって付けられています。また、改修工事中、江戸時代に侍を描いたと思われる、下見板裏の落書きが発見され、天守内に展示しています。
2006年(平成18年)に、松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定されています。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(81番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
2007年(平成19年)3月2日、情緒あるたたずまいが残されていることが評価され美しい日本の歴史的風土100選に道後温泉とともに選定されています。2009年(平成21年)3月にミシュランガイド(観光地)日本編において「2つ星」に選定されています。
文化財 |
概 要 |
天守 |
三重三階天守、地下一階付、本瓦葺 |
三ノ門南櫓 |
一重櫓、本瓦葺 |
二ノ門南櫓 |
一重櫓、本瓦葺 |
一ノ門南櫓 |
一重櫓、本瓦葺 |
乾櫓 |
矩折二重二階隅櫓、一部一重、本瓦葺 |
野原櫓 |
二重二階隅櫓、一部一重、本瓦葺 |
仕切門 |
脇戸付高麗門、本瓦葺 |
三ノ門 |
高麗門、本瓦葺 |
二ノ門 |
脇戸付薬医門、本瓦葺 |
一ノ門 |
脇戸付高麗門、本瓦葺 |
紫竹門 |
脇戸付高麗門、本瓦葺 |
隠門 |
櫓門、本瓦葺 |
隠門続櫓 |
一重櫓、本瓦葺 |
戸無門 |
高麗門、本瓦葺 |
仕切門内塀 |
延長24.6m、狭間十六所、本瓦葺 |
三ノ門東塀 |
延長14.2m、狭間十所、本瓦葺 |
筋鉄門東塀 |
延長11.1m、狭間九所、本瓦葺 |
二ノ門東塀 |
延長3.7m、狭間三所、本瓦葺 |
一ノ門東塀 |
延長10.1m、狭間十所、本瓦葺 |
紫竹門東塀 |
延長16.6m、狭間十一所、本瓦葺 |
紫竹門西塀 |
延長14.5m、狭間十所、本瓦葺 |
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住所 |
愛媛県松山市丸の内 |
電話 |
089-921-4873 FAX : 089-934-3417 松山城総合事務所 |
営業時間
定休日 |
区分 |
期間 |
営業時間 |
定休日 |
ロープウェイ |
2月〜7月 |
8:30〜17:30 |
無休 |
8月 |
8:30〜18:00 |
9月〜11月 |
8:30〜17:30 |
12月〜1月 |
8:30〜17:00 |
リフト |
通年 |
8:30〜17:00 |
天守 |
2月〜7月 |
9:00〜17:00 |
12月29日
(大掃除) |
8月 |
9:00〜17:30 |
9月〜11月 |
9:00〜17:00 |
12月〜1月 |
9:00〜16:30 |
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入館料 |
区分 |
観覧券 |
往復券 |
片道券 |
総合券
(観覧券+往復券) |
大人 |
500円 |
500円 |
260円 |
1,000円 |
小人
(小学生) |
150円 |
250円 |
130円 |
400円 |
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住所 |
愛媛県松山市 |
形式 |
連郭式平山城 現存天守:連立式層塔型3重3階地下1階 |
遺構 |
現存天守 櫓 門 塀 井戸 石垣 土塁 堀 |
築城者 |
加藤嘉明 |
再建造物 |
小天守 櫓 門 十間廊下 |
城主 |
加藤嘉明、蒲生忠知、松平(久松)氏 |
駐車場 |
松山城駐車場(喜与町駐車場)(有料) |
築城年 |
慶長7年(1602年)着手 |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
明治6年(1873年) |
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