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丸亀城天守 |
丸亀城は、香川県丸亀市にある現存天守を持つ輪郭式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。また日本100名城(78番目)に選定されています。
丸亀城は、室町時代初期に管領細川頼之の重臣奈良元安によって丸亀平野の海抜66mの亀山に砦を築いたのが最初です。その後、安土桃山時代の慶長2年(1597)に生駒親正が亀山を中心に、その山裾の平地に外堀と内堀を巡らせて現在の丸亀城を築いています。
丸亀城の縄張りは、ほぼ四角形で亀山の周囲を堀(内堀)で囲む輪郭式平山城です。石垣は、山麓の内堀から山頂まで四重に重ねられ、下の方は緩やかで、頂上は垂直になるよう独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっているのが見物です。
総高60mの石垣は日本一高い石垣と言われていて、三の丸石垣だけで一番高い部分は22mもあります。頂部の本丸には1660年に建てられた御三階櫓が現存し、現在は現存天守として扱われています。この建物は唐破風や千鳥破風を施して漆喰が塗られ高さは15mとなり、現存三重天守の中で最も小規模な天守となります。ただし、高さだけなら11mの備中松山城が最も小規模です。ただしこちらは二重天守です。
当時の絵図面では、内堀の外側には侍屋敷が建ち並び、さらにこの周囲を外堀が方形に取り囲んでいます。しかし侍屋敷は明治時代に大半が取り壊され、その跡地に善通寺第11師団の丸亀歩兵第12連隊、裁判所や小中学校などが建てられています。まあ、ありがちですね。
外堀は明治頃までは存在していましたが、開発により次第に埋め立てられ、一部残されていた南側の箇所も今は埋め立てられ、現在では外堀は消滅しています。
城跡の全域は国史跡に指定されていて亀山公園として整備されています。建築物としては天守、大手一の門、大手二の門、御殿表門、番所、長屋が現存しており、天守、大手一の門、大手二の門は国重要文化財に指定されています。
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丸亀城大手二の門 |
慶長2年(1597年)、豊臣政権時代に生駒親正が讃岐17万石を与えられ高松城を本城とし、亀山に支城として丸亀城を築いています。慶長7年(1602年)には6年の歳月を要し、ほぼ現在の城郭が完成しています。と言ってもこの時点では天守もないし、今に見られるような大規模な石垣もなかったのですが。元和元年(1615年)には一国一城令により丸亀城は破却されるはずでしたが、3代藩主・生駒正俊は城の要所要所を樹木で覆い隠し立ち入りを厳しく制限して城を破却から守っています。しかしかなり危険なことをしたものですね。
寛永17年(1640年)には4代藩主・生駒高俊が生駒騒動のため出羽国矢島1万石(現・秋田県由利本荘市)に減転封となっています。
寛永18年(1641年)には山崎家治が肥後国富岡(現・熊本県天草郡苓北町)より5万石で入封し、丸亀藩が立藩されています。家治は寛永20年(1643年)には丸亀城の改修に着手しています。幕府は丸亀藩に銀300貫を与え、参勤交代を免除し、突貫工事で城の改修を急がせているのは、かなり異例です。
これは瀬戸内海の島々にいたキリシタンの蜂起に備えさせるためと言われています。ですが、既に破却されていてもともとあるはずのない丸亀城ですので、実は幕府は城が破却されていないとお見通しだったのでしょうね。しかし残念ながら家治は城が完成をするのを見届けないまま、慶安元年(1648年)3月17日、55歳で死去し、跡を継いだ山崎俊家も慶安4年(1651年)10月26日に丸亀にて死去してしまいます。享年35歳。その跡を継いだ山崎治頼は明暦3年(1657年)3月6日にわずか8歳で死去し、山崎氏は城の完成を見ないまま無嗣断絶で改易となっています。
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丸亀城大手一の門 |
もっとも山崎氏の名跡は叔父の山崎豊治が5000石の交代寄合として継承しています。
代わって播磨国龍野(現・兵庫県たつの市)より京極高和が6万石で入封し、以後、明治時代まで京極氏の居城となっています。
万治3年(1660年)に高和は城の裏口にある海側の搦手門を大手門に変更しています。その大手門から見上げる石垣の端に、現在の3層3階の御三階櫓(天守)が完成しています。
寛文10年(1670年)には北の大手門櫓と西曲輪の御殿が新しく造営されています。
延宝元年(1673年)にはようやく32年の歳月を要した城の大改修が完了しています。現存する石垣の大半はこの改修の際に完成したものです。その後、明治維新を迎えます。
明治2年(1869年)には三の丸の戌亥櫓が火災により焼失しています。
明治6年(1873年)には陸軍省の所管となり、名東県の広島鎮台第2分営が設置されています。
明治10年(1877年)から現存の建物以外の櫓・城壁等の解体が始まっています。
大正8年(1919年)には丸亀市が山上部を借地し、亀山公園として開設。
昭和18年(1943年)には天守が国宝保存法に基づき旧国宝(現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
昭和23年(1948年)からは外濠の埋め立てが始まる。昭和25年(1950年)には天守の解体修理が始まっています。
昭和25年(1950年)に第1回の丸亀お城まつりが開催された。(同年の「解体修理」記念行事)
昭和25年(1950年)には文化財保護法施行により天守は改めて国重要文化財に指定されています。
昭和28年(1953年)3月31日に国の史跡に指定される。
昭和32年(1957年)には大手一の門・大手二の門が国重要文化財に指定されています。
昭和47年(1972年)には丸亀城や京極氏に関わる史料を展示する丸亀市立資料館が開館。
平成9年(1997年)に築城400年祭を開催しています。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(78番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されました。
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丸亀城内堀 |
丸亀城大手口 |
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丸亀城内堀 |
丸亀城大手二の門と天守 |
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丸亀城大手二の門(内側) |
丸亀城大手一の門(内側) |
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丸亀城三ノ丸石垣 |
丸亀城三ノ丸石垣の「扇の勾配」 |
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丸亀城三ノ丸石垣は22mもの高さがあります |
丸亀城三ノ丸石垣の「扇の勾配」 |
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石垣の継ぎ足し |
丸亀城三ノ丸櫓台跡 |
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丸亀城二ノ丸石垣 |
丸亀城三ノ丸東側石垣 |
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丸亀城月見櫓跡 |
丸亀城二ノ丸石垣 |
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丸亀城二ノ丸櫓台跡 |
丸亀城二ノ丸石垣 |
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丸亀城二ノ丸石垣 |
丸亀城二ノ丸門跡 |
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丸亀城二ノ丸から天守を望む |
丸亀城二ノ丸櫓台跡 |
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丸亀城二ノ丸櫓台跡 |
丸亀城二ノ丸跡 |
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丸亀城二ノ丸井戸跡 |
丸亀城二ノ丸櫓台跡 |
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丸亀城本丸石垣と天守 |
丸亀城天守 |
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丸亀城二ノ丸隅櫓跡 |
丸亀城天守と本丸石垣 |
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丸亀城天守 |
丸亀城本丸 |
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丸亀城本丸から見た三ノ丸井戸 |
丸亀城本丸からみた三ノ丸 |
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丸亀城天守 |
丸亀城天守 |
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丸亀城天守二階 |
丸亀城天守二階 |
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丸亀城本丸石垣 |
丸亀城長崎櫓跡 |
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丸亀城天守 |
丸亀城本丸隅櫓跡 |
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丸亀城戌亥櫓跡 |
丸亀城天守 |
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丸亀城本丸石垣 |
発掘調査された櫓台跡 |
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三ノ丸から見た本丸石垣 |
三ノ丸井戸 |
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三ノ丸から見た本丸石垣 |
丸亀城二ノ丸石垣 |
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搦手口付近の石垣 |
搦手口 |
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搦手口付近の石垣 |
搦手口がやけに堅固です |
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搦手口付近の石垣 |
搦手門跡 |
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搦手門跡 |
かぶと岩 |
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玄関先御門 |
番所 |
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玄関先御門 |
大手二の門櫓 |
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住所 |
香川県丸亀市一番丁 |
電話 |
0877-24-8816(市商工観光課) |
開館時間 |
天守閣 : 9:00~16:30
大手一の門 : 10:00~16:00 |
休館日 |
天守閣 : 12月25日~12月31日
大手一の門 : 雨天時、毎週水曜日、12月25日~12月31日 |
天守閣入場料
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大人 200円
小人(小・中学生) 100円
団体(30人以上) 1人につき上記の金額の2割引の額 |
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住所 |
香川県丸亀市一番丁 |
形式 |
輪郭式平山城 現存天守:独立式層塔型三層三階 |
遺構 |
現存天守 門 長屋 番所 石垣 堀 |
築城者 |
奈良元安 生駒親正 |
施設 |
資料館 |
城主 |
生駒氏、山崎氏、京極氏 |
駐車場 |
城山下駐車場(有料) |
築城年 |
室町初期 |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
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