|
源平供養塔 |
倶利伽羅古戦場は、平安時代末期の寿永2年5月11日(1183年6月2日)、倶利伽羅峠の戦い(砺波山の戦い)が起こった古戦場です。源平古戦場のひとつです。
倶利伽羅古戦場は、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)にあり、源義仲軍と平維盛率いる平家軍がこの地で戦っています。治承・寿永の乱における戦いの一つでもあります。
治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源(木曾)義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げます。
寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けます。平家軍は越前国の火打城の戦いで木曾義仲軍を破り、義仲軍は越中国へ退却します。しかし越中国へ進出した平家軍が般若野の戦いで義仲四天王の今井兼平に敗れてしまいます。平家軍は一旦後退し、能登国志雄山に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いています。
5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かいます。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして、平家軍の油断を誘い、ひそかに樋口兼光の一隊を平家軍の背後に回りこませました。
平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けます。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていたため、大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だったため、平家軍将兵は次々に谷底に転落して壊滅してしまいます。
|
倶利伽羅不動寺 |
平家軍は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰っています。
この戦いに大勝した源義仲は京都へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たします。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びています。
しかし義仲は、後白河法皇や朝廷とはうまくいかず、京都の治安回復にも失敗しています。連年の飢饉で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために遠征軍による都や周辺での略奪行為が横行する事態となり、義仲は信用回復と食糧確保のためにさらに西に向かうこととしますが、その隙に源頼朝が弟義経を京都に向かわせることになり、義仲は京都に戻ったものの後白河法皇と完全に敵対することになります。
義仲は、最終的には義経軍に敗れ、寿永3年1月21日(1184年3月5日)の粟津の戦いで敗死して、信濃源氏軍は壊滅することになります。
現在の倶利伽羅古戦場には、平家方の総大将であった平維盛の本陣が置かれた猿ヶ馬場が残っています。
ここは戦国期にも一向一揆の拠点が置かれた要衝の地ですので、城塞跡でもあります。
近くには倶利伽羅不動寺、五社権現、源平供養塔があり、茶屋跡もあります。
この地の近くには、平家軍が陣を構えたとされる源氏ヶ峰城があります。この城は戦国期にも佐々成政が改修し利用したといわれています。
この地は加賀国と越中国の国境にあり戦略上の要衝にあったためにあちこちに城跡が残っています。
また東側の山麓には、葵御前、巴御前の塚が現存しています。
また埴生の集落には埴生護国八幡宮があり、国重要文化財に指定されています。
|
|
埴生護国八幡宮 |
埴生護国八幡宮 源義仲像 |
|
|
埴生護国八幡宮社殿 |
とやまの名水 鳩清水 |
|
|
倶利伽羅源平の郷 埴生口 |
若宮古墳公園 |
|
|
巴塚 |
葵塚 |
|
|
源平供養塚 |
為盛塚 |
|
|
源平倶利伽羅合戦の地 |
火牛の計 |
|
|
猿ヶ馬場 平家軍本陣跡 |
平家本陣軍略図 |
|
|
歴史国道 |
茶屋跡 |
|
|
高木勝巳翁の像 |
倶利伽羅権現石殿 |
|
|
2等三角点 標高276.8m |
倶利伽羅不動寺 |
|
|
手向神社石堂神殿 |
倶利伽羅不動寺本堂 |
|
|
五重塔 |
和光塔 |
|