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高知城天守 |
高知城は、高知県高知市丸の内にある現存天守を持つ梯郭式平山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。日本100名城(84番目)に選定されています。
高知城は、高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を自然の外堀として利用しています。
この地には南北朝時代から城が存在していましたが、当時は大高坂山城と呼ばれていました。現在の高知城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成しています。独立式望楼型4重6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれています。
高知城天守は、独立式望楼型4重6階で1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもあります。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式です。
最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれています。この天守の特徴としては、天守台がなく本丸上に直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられている点でしょう。このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであると言われていますが、現存天守ではこのような構造の城は高知城だけです。
創建時の天守は享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっています。天守の平面寸法は、初層と2層が総二階造りで8間×6間、3層と4層は4間×4間、5層と最上層は3間×3間です。
土佐一国は江戸時代を通して一貫して山内氏の領地であり、高知城も山内氏の居城でした。
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高知城追手門 |
明治維新後も明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れた高知城は、天守・本丸御殿・追手門など15棟の建造物が現存していて、これらは国重要文化財に指定されています。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されています。
高知城全域は高知公園として一般に開放されていて、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されています。
高知城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関があり、高知県の行政・司法の中心地となっています。また、城内には山内一豊、板垣退助の銅像があります。
現在みられる遺構は前述するように山内氏時代のものですが、この地に城が築かれたのは南北朝時代の頃で、南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称しています。延元3年(1338年)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えています。しかし興国2年(1341年)に北朝方の細川禅定、佐伯経定に攻められ大高坂山城は落城し廃城となっています。
戦国時代となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、天正15年(1587年)にこの地に築城しています。しかし天正19年(1591年)に元親は、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いて、たった3年で水はけの悪い大高坂山城を放棄しています。この地は湿地帯だったのですね。
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高知城天守と本丸御殿・懐徳館 |
慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いにおいて長宗我部元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から入封し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入っています。
土佐藩初代藩主となった山内一豊は、天文14年(1545年)に尾張国葉栗郡黒田(岩倉ともいわれる)に生まれています。父の盛豊は、尾張岩倉城主織田信安の家老で、黒田城を任されていましたが、永禄2年(1559年)、織田信長に攻められ岩倉城で討ち死にしたと言われています。以後、一豊は母とともに流浪の生活を送ることとなっています。
一豊は流浪の末に苅安賀城主・浅井新八郎(政貞)、松倉城主・前野長康、その後尾張を出て美濃国牧村城主・牧村政倫や近江国勢多城主・山岡景隆に仕えています。
しかし永禄11年(1568年)頃には織田信長に仕えるようになり、信長家臣であった秀吉の与力となり、信長の越前朝倉攻めでは秀吉の配下として武功をあげ400石の領地を与えられています。
また、本能寺の変で信長が死去し秀吉の天下となると、そのもとで数々の功績を重ね、天正13年(1585年)に近江長浜2万石、天正18年(1590年)に遠州掛川5万石を与えられ、検地や築城、城下町経営に手腕を発揮しています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川方に味方したおかげで、前出するように土佐一国を与えられて、土佐国に入封することになりました。
当時の土佐国は、長宗我部氏の除封により混乱状態にあったため、一豊はまず弟の康豊を先に土佐に派遣した。長宗我部元親の遺臣が、浦戸城の明け渡しに反対する一揆を起こしたが、康豊はこれを武力によって鎮圧する一方で、旧来の制度を踏襲し領国統治を行う旨を示すなどの懐柔策を展開しています。
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高知城詰門・廊下門 |
一豊は慶長5年(1600年)の暮れに大坂を出発し、翌6年1月2日に甲浦に上陸、8日に浦戸城に入城しています。
関ヶ原の戦い以降、大幅な加増により入部してきた大名は人材も不足しているので、通常は在地の旧家臣団を大量雇用するのですが、一領具足を中心とした長宗我部氏の旧臣たちの多くは新領主となった山内氏に反発して土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こしています。これに対し一豊は重要なポストを外部からの人材で固めて、種崎浜での討伐などあくまで武断措置を取ってこれに対応しています。しかし種崎浜での騙し討ちはあまりにもあざといのでは・・・。
ただ、一領具足たちも長宗我部氏の復帰を求めるというのはいかがなものだったか。盛親が改易されたのも津野親忠を騙し討ちした事が決定的な理由となっています。これでは復帰など望むべきはなかったのでは。
慶長6年(1601年)8月、山内一豊は、浦戸が城下町を開くには狭いため、百々綱家を総奉行に任じ、翌月より浦戸湾に面した地の利がある大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江の口川など川の治水工事に着手しています。慶長8年(1603年)には本丸と二の丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城しています。この際に、真如寺の僧・在川により、河中山城(こうちやまじょう)と改名されています。
慶長15年(1610年)には度重なる水害を被り、2代忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名しています。この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼ばれるようになります。
慶長16年(1611年)には三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成したことになります。ところが享保12年(1727年)に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失してしまいます。(泣)
享保14年(1729年)には8代藩主山内豊敷は、深尾帯刀を普請奉行に任じ、城の再建に着手しています。寛延元年(1748年)に天守ほか櫓・門などが完成しています。天守は以前のものに比べて小振りとなったが外観は焼失前の姿が復興されています。
宝暦3年(1753年)には再建が完了、現在見られる建造物の大半は、この時に再建されたものです。
明治6年(1873年)には廃城令に伴い、高知城跡が高知公園となります。この際に、現存建造物以外の建造物が破却されています。昭和9年(1934年)に天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定されています。昭和23年(1948年)には天守をはじめ各建物の修理が始められています。昭和25年(1950年)には天守等15棟が文化財保護法の施行により改めて国重要文化財に指定されています。
昭和34年(1959年)6月18日には国史跡に指定されています。またこの頃に修復工事が完了しています。
平成2年(1990年)には追手門矢狭間塀などの修復工事が完了しています。平成16年(2004年)、本丸南石垣修復工事完成。
平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(84番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始されています。
高知城には、15棟もの国重要文化財となる建造物が現存していて、極めて貴重な遺構を残しています。
文化財 |
概 要 |
天守 |
四重五階天守、本瓦葺 |
懐徳館 |
上段の間(床、棚、書院附)、二の間、三の間(茶所附属)、四の間、納戸、三畳二室、
雪隠、入側、板間及び縁側より成る一重、入母屋造、本瓦葺、溜の間(十三畳、七畳半、
九畳及び四畳)及び玄関付属する |
納戸蔵 |
八畳三室、四畳及び縁側より成る、一重、入母屋造、本瓦葺 |
黒鉄門 |
櫓門、入母屋造、本瓦葺 |
西多聞 |
一重櫓、本瓦葺 |
東多聞 |
一重櫓、本瓦葺 |
詰門 |
櫓門、北面入母屋造、南面廊下門に接続、本瓦葺 |
廊下門 |
櫓門、入母屋造、本瓦葺 |
追手門 |
櫓門、入母屋造、本瓦葺 |
天守東南矢狭間塀 |
延長61.2m、銃眼十五所、本瓦葺 |
天守西北矢狭間塀 |
延長5.8m、本瓦葺 |
黒鉄門西北矢狭間塀 |
延長23.0m、銃眼五所、本瓦葺 |
黒鉄門東南矢狭間塀 |
延長14.6m、銃眼三所、本瓦葺 |
追手門西南矢狭間塀 |
延長71.2m、銃眼十三所、本瓦葺 |
追手門東北矢狭間塀 |
延長27.6m、銃眼五所、本瓦葺 |
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住所 |
高知県高知市丸の内1丁目2番1号 |
電話 |
TEL 088-824-5701 FAX 088-824-9931 |
開館時間 |
9:00〜17:00 (入場16:30まで) |
休館日 |
12月26日〜1月1日 |
入館料 |
18歳以上 400円(320円)
18歳未満、長寿手帳、身体障害者手帳、高校生 無料
( )内は団体料金 ※20名以上 |
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住所 |
高知県高知市丸の内 |
形式 |
梯郭式平山城 現存天守:独立式望楼型4重6階 |
遺構 |
現存天守、本丸御殿・櫓・門、石垣、堀 |
築城者 |
山内一豊 |
施設 |
懐徳館(資料館) |
城主 |
山内氏 |
駐車場 |
高知公園駐車場(有料) |
築城年 |
1603年(慶長8年) |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
1871年(明治4年) |
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