国史跡 じょうべのま遺跡
概 要
じょうべのま遺跡は、富山県下新川郡入善町田中にある平安時代から鎌倉時代にかけて存在した全国的にも数の少ない荘園遺跡です。この遺跡からは約20棟の建物跡と須恵器や木製品が出土しています。なお、一帯は昭和54年5月14日に国史跡に指定されていて、入善町により史跡公園として整備されて、平成2年4月から一般公開しています。
このじょうペのま遺跡では、圃場整備にともない昭和45年以降、17回にも渡る発掘調査が行われていて、その結果遺跡の中心部の様子がほぼ明らかとなっています。
遺跡の中央には、幅が約30mの河川跡が発見されています。この河川は北へ向けて流れてそのまま海へと注いでいたと考えられます。この河川の西側には平安時代前半の建物跡が20棟以上も発見されています。その結果二間五間南廂(柱間2m以上)の東西棟を主屋とする建築遺構を中心に、6期にわたって建替えられている南北棟の脇屋(大部分柱間2m以上、廂・間仕切り等を備えるものあり)が東西に配置されていて、これらを囲む柵列・溝、更に海岸に面して潟の痕跡、その他の建築遺構が発見されています。また、出土遺物も多数の土師器・須恵器・木器類と共に文書風木簡、「西庄」と読める墨書土器数点、緑釉・灰釉陶器、風字硯、杯蓋硯等が出土していて、この遺構が平安初期の荘家跡を中心とする遺跡であることが判明しました。さらに、荘園を流れる河川の存在により、この荘家が海上輸送の基地としての性格があったと考えられます。
これらの発掘調査の結果、この遺構が寺に関係した荘園の荘所跡ではないかと考えられています。
大治年間(1126~30)には、東大寺領入善荘が成立しているのですが、これ以前からここには荘園があったと思われる形跡があることになり、さらに詳細な調査が望まれるところです。現時点では東大寺領荘園であったという説と西大寺領荘園であったという説が併存していて、確定はしていません。
河川の東側にも建物跡が発見されていますが、こちらは西側の遺構に比べると小規模な建物だったようです。
こちらの建物は平安時代末期から鎌倉時代前半に存在した7棟の堀立柱の建物跡・珠洲焼・土師質土器及び中国製の青・白磁の遺物が出土しています。中国製の青磁や白磁は、当時において一般の人々が所有できるとは考えられないため、かなりの地位の人々がここに居住していたと考えられます。
前述するようにこの時期には東大寺領入善荘が成立していたので、ここが東大寺領荘園であった可能性は高いと言えますが、この点についても今後の調査が待たれるところです。

史跡じょうべのま遺跡の説明板です 河川跡
史跡じょうべのま遺跡の説明板です 河川跡
第二号住居は日本でも最大級の竪穴住居跡です 5号建物跡は楼跡でしょうか
4号建物跡は最大規模の建物跡です 5号建物跡は楼跡でしょうか
3号建物跡は比較的小規模な建物跡です 2号建物跡
3号建物跡は比較的小規模な建物跡です 2号建物跡
1号建物跡が中心的建物であるらしい 建物跡の配置図と予想図
1号建物跡が中心的建物であるらしい 建物跡の配置図と予想図
こんな様子だったのか 河川跡の中央付近
こんな様子だったのか 河川跡の中央付近
河川跡 建物群
河川跡 建物群
この建物群にはどんな人々が住んでいたのでしょうか 河川跡には船が海から入ってきたのかも
この建物群にはどんな人々が住んでいたのでしょうか 河川跡には船が海から入ってきたのかも
河川跡は約30mあります 南西部は小高い丘になっています
4号建物跡 南西部は小高い丘になっています
土塁上から見た建物群 土塁上から見た河川跡
土塁上から見た建物群 土塁上から見た河川跡
土塁上から見た遺跡全景 土塁上
土塁上から見た遺跡全景 土塁上
低地部分が河川跡です 河川跡の中央に橋が架かっています
低地部分が河川跡です 河川跡の中央に橋が架かっています
土塁 河川跡はかなりの広さです
土塁 河川跡はかなりの広さです

じょうべのま遺跡

所在地 富山県下新川郡入善町田中790
電話 TEL:0765-72-1100(内線355) FAX:0765-74-2790
入善町教育委員会  文化係
開場時間 常時開放
入館料 無料
遺構 河川跡、建物跡、柵列跡、溝跡
出土品 土師器・須恵器・木器類、文書風木簡、墨書土器数点、緑釉・灰釉陶器、風字硯、杯蓋硯
存続時期 平安時代~鎌倉時代
施設 休憩所、トイレ、駐車場、説明板
指定文化財 国史跡
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じょうべのま遺跡マップ
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