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弘前城天守 |
弘前城は、青森県弘前市にある現存天守を持つ梯郭式平山城です。この弘前城は、慶長16年
(1611年)、弘前藩津軽氏47,000石の居城として津軽為信、信枚が築城しました。
現在日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。また国史跡にも指定されています。
城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城です。
天守は、独立式層塔型3層3階です。実際には御三階櫓と言える建築物です。
当初の規模は東西612メートル、南北947メートル、総面積385,200平方メートルに及ぶ巨大な城郭でした。現在も、天守、3棟の櫓、5棟の櫓門、堀、石垣、土塁などの遺構がほぼ廃城時のまま現存しているという極めて貴重な城郭遺構です。
天正18年(1590年) 南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原攻めの際に豊臣秀吉にうまく取り入り、南部氏に先んじて45,000石の所領安堵の朱印状を受けています。さらに大浦を津軽と改姓し、津軽為信と名乗っています。
文禄3年(1594年)には津軽為信が堀越城(弘前市堀越)を築き大浦城より移っています。しかし、この地は軍事に不向きであることを理由に新城の候補を鷹岡(現在の弘前城の所在地)に選定しています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは為信は東軍についたので、戦後に徳川家康より2,000石の加増を受けることで弘前藩47,000石が成立しています。
しかしこの際に嫡男の信建は豊臣秀頼の小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子石田重成らを連れて帰国しています。まあ、二股をかけていたと思われても仕方ないかも。
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弘前城天守 |
また関ヶ原の合戦の際には国許では家臣団の反乱が起こっていて、居城堀越城を占拠されるという事態が発生しています。しかし西軍敗戦の報が伝わると反乱方は戦意喪失の上で追討されて、反乱は鎮圧されています。しかしやはり堀越城は軍事に不向きということでしょうか。
慶長8年(1603年)にはいよいよ為信は鷹岡に築城を開始しています。しかし翌慶長9年(1604年)12月には為信が京都にて客死し、築城は中断することとなりました。この2ヶ月前には嫡男の信建も病死していてその跡は3男の信枚が継いでいます。
慶長14年(1609年)には信枚が築城を再開し、堀越城、大浦城の遺材を転用し急ピッチでの築城を行っています。そのおかげで慶長16年(1611年)には僅か1年1か月で弘前城が完成しています。この際には、5層5階の天守を持っていたのですが、寛永4年(1627年)に落雷により天守を焼失してしまい、以後200年近く天守のない時代が続いています。
そして文化7年(1810年)に9代藩主津軽寧親が御三階櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に現在見られる3層3階の御三階櫓(代用天守)が建てられています。
明治6年(1873年)には廃城令発布により廃城処分とされ、本丸御殿や武芸所等が取り壊されています。
明治27年(1894年)には旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として一般開放するため、城地の貸与を願い出て許可されています。そして翌明治28年(1895年)には城地が弘前公園として市民に一般開放されています。
明治39年(1906年)には北の郭の子の櫓と西の郭の未申櫓の櫓2棟が焼失するという事件が発生しています。これはまずかったですね。昭和12年(1937年)には、現存建造物群8棟(三の丸東門除く)が国宝保存法に基づく旧・国宝(現・重要文化財に相当)に指定されています。 |
住所 |
青森県弘前市大字下白銀町1−1 |
電話 |
0172-33-8733 |
開館時間 |
9:00〜17:00(入園券の販売は16:30まで)
4月23日〜5月5日は7:00〜21:00まで |
開館日 |
4月1日〜11月23日 |
入館料 |
弘前公園有料区域への入園者は無料 |
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住所 |
青森県弘前市大字下白銀町 |
形式 |
梯郭式平山城 現存天守:独立式層塔型3層3階 |
遺構 |
現存天守・櫓・門 石垣、土塁、堀 |
築城者 |
津軽為信・信枚 |
再建造物 |
二の丸東門与力番所 |
城主 |
津軽氏 |
駐車場 |
有料駐車場あり |
築城年 |
慶長16年(1611年) |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
明治4年(1871年) |
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