八ヶ山A遺跡
概 要
調査区遠景
調査区遠景
八ヶ山A遺跡は、富山市北西部の神通川左岸、標高6mの平野に立地し、南側は呉羽丘陵と台地が迫っています。
八ヶ山A遺跡は現在の神通川から約2 km西にある呉羽山丘陵西側に広がる射水平野の東端、標高5~6mの微高地上に立地し、東側に流れる神通川からは約l kmの距離にあります。
神通川は洪水によって流路が大きく変遷していて、江戸時代前期にあたる1658年から1668年、本流が西から東に大きく移っています。
遺跡の北西は縄文時代中期以降の海退によって古放生津潟が形成され、そこに流れ込む川で運ばれた土砂が堆積することにより中世~近世には低湿地帯が形成されています。
一方、この地域一帯は洪水の被害が大きく、江戸時代、水害に悩まされた住民による鍛治川から分岐する新堀川の開削、神通川を水源とする牛ヶ首用水などの開削とそれに伴う農地の新開が文献にみられます。
一方、当遺跡の北西約10kmに位置する放生津は、中世期を通して港湾施設が整備され、日本海海運の進展に伴って発展しています。
本遺跡の当該期である13世紀後半から14世紀前半は、北条得宗家による日本海沿岸港湾の掌握が推進された時期です。
本遺跡の周辺には縄文時代から近世までの多数の遺跡が確認されています。
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鎌倉時代の溝
代表的なものとしては、縄文時代の小竹貝塚(日本海側最大級)や北代遺跡(国史跡)、弥生~古墳時代の江代割遺跡(大規模集落)や杉谷古墳群(四隅突出型墳丘墓)、古代の長岡杉林遺跡、中世の打出遺跡(鎌倉~室町時代の屋敷跡)などがあります。
本遺跡周辺の近年の調査では、南西に位置する小竹貝塚で従来不明であった居住域が確認された。南東に位置する百塚遺跡では、弥生から古墳時代の墳墓が19基確認され、移行期における墓制の在り方を考える上で重要な資料となります。
また中世岩瀬湊の港町と推定される四方北窪遺跡では、掘立柱建物や畑などとともに側溝を有する道路跡が確認されています。
本遺跡の西南0.5kmに所在する八町Ⅱ遺跡では、古墳時代前期~中期および鎌倉~室町時代の集落跡が確認されています。
特に中世においては、八町地内と呉羽町および北代一帯が南北朝・室町時代の京都下鴨社の神社領「寒江庄」に該当することから、当時の中核的な集落である可能性が指摘されていて、それを証明するように、鎌倉から取り寄せた千鳥紋を施した高級漆器が出上しています。
平成26年度の発掘調査で、奈良・平安・鎌倉時代の区画溝や井戸が見つかりました。
区画溝は、2から3条を一単位とする溝で集落の周囲を大きく区切り、その内側を1条の溝で細かく分けたと推定されます。
奈良・平安時代も鎌倉時代も溝の方位が同じであることから、長期間同じ地割を踏襲しながら集落を営んだことがわかります。
鎌倉時代の井戸からは、箸はし状の細長い木製品が出土しました。食器等が一緒に出土していないことや他の遺跡の事例から、井戸の中や地面に刺し、井戸を鎮める祭祀さいしを行った道具と考えられます。
近年の調査で近くの八町Ⅱ遺跡、北代村巻Ⅴ遺跡、百塚住吉D遺跡などでも八ヶ山A遺跡と類似した方位・規模をもつ区画溝が確認され、奈良時代から室町時代にかけて、同様の構造の集落が周辺に広がっていたことがわかってきました。
この付近は、古代に「寒江郷」と呼ばれる集落、中世に「寒江荘」と呼ばれる荘園が存在しました。
発掘調査で見つかったこうした集落群が、寒江郷や寒江荘に比定できると考えられます。

土師器 須恵器、土錘、鉄滓、砥石
土師器 須恵器、土錘、鉄滓、砥石
土師器 砥石
土師器 砥石
箸状木製品 鎌倉時代の出土品
箸状木製品 鎌倉時代の出土品
箸状木製品 出土した土師器
箸状木製品 出土した土師器
出土した土師器 土錘、鉄滓
出土した土師器 土錘、鉄滓
八ヶ山A遺跡
住所 富山県富山市八ケ山地内
電話 富山市教育委員会 埋蔵文化財センター Tel076-442-4246 Fax076-442-5810
公開日 非公開
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八ヶ山A遺跡マップ
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