名立(なだち) |
筒石→名立→有間川 |
所在地 |
新潟県上越市名立区名立大町
字町田道下1009 |
所属事業者 |
えちごトキめき鉄道 |
所属路線 |
日本海ひすいライン |
キロ程 |
45.1km(市振起点) |
駅構造 |
高架駅 |
ホーム |
2面2線 |
乗車人員 |
90人/日(2018年) |
開業年月日 |
1911年(明治44年)7月1日 |
駅種別 |
無人駅 自動券売機 |
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名立駅 |
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ホームに普通列車が到着します |
相対式ホームの内側に通過線が2本あります |
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名立駅は、新潟県上越市名立区名立大町字町田道下にある、えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの駅です。
後に北陸本線となる区間のうち、米原 - 富山間は鉄道敷設法の第一期線に指定されていたのに対し、富山 - 直江津間は第一期線ではなく、地元の建設促進の陳情にもかかわらず鉄道の建設は遅れていた。1906年(明治39年)1月の帝国議会での協賛によりようやく富山
- 直江津間に着工されることになり、路線の両側から工事が進められることになった。1911年(明治44年)7月1日に名立 - 直江津間が開通し、まずは終着駅として名立駅が開設された。鉄道開通が遅れていたこの地域の人々にとって、駅の開業は大きな喜びで、名立尋常高等小学校の運動場で盛大な祝賀会が開催され、夜はちょうちん行列で賑わったと記録されている。続いて1912年(大正元年)12月16日に名立
- 糸魚川間が開通して名立駅は中間駅となり、さらに1913年(大正2年)4月1日に青海 - 糸魚川間が開通したことで北陸本線が全通した。
当初の名立駅は名立小泊港の近くに設置され、大字名立小泊229番地の2に所在していた。当初は客貨とも少なかったが、北陸本線が全通する頃になるとかなりの利用を見せるようになった。
当駅に発着する貨物で特徴的なものとしては、発送品として鮮魚が挙げられる。毎年4月から9月まで、小ダイ、サバ、イカなどを氷詰めにして発送していた。1954年(昭和29年)に新しい漁法が導入されると大漁続きとなり、サバ、アジなどを全国に出荷するようになり、1日に26両の貨車を送り出したこともあったという。しかし1960年(昭和35年)頃にはこの新しい漁法も衰退してしまった。このほかに年間800トンに上る炭の出荷が行われていた。また名立町内には灸に用いるもぐさを生産する工場があったことから、到着品としてはその材料となるヨモギが多く、貨物扱いの廃止まで続いた。
名立駅を利用する旅客としては、直江津や高田方面へ鮮魚の行商へ行く女性がかつては多くみられていた。名立の行商の最盛期は昭和30年代から40年代にかけてであったが、駅が移転して遠くなったこともあり衰退した。かつての名立町は西頸城郡に属していたものの、生活圏としては上越市側に属していたことから、駅の利用客の多くが上越市方面への通勤通学客で占められるようになっている。
糸魚川 - 直江津間の北陸本線は、地すべり・雪崩・積雪・風水害などの災害が相次ぐ区間であった。1963年(昭和38年)1月12日からの大雪では、約1か月にわたり北陸本線が不通となった。さらに同年3月16日16時過ぎには、能生町小泊において大規模な地すべりが発生し、能生駅を出発した直後であった敦賀発直江津行き7両編成の普通列車が崩壊区間に突っ込む事故が起きた。地元の住宅約30戸が地すべりに巻き込まれて全壊し、死者2名、行方不明者2名を出し、機関車は日本海まで押し流されたものの、列車の乗員乗客約150名は全員が無事であった。この災害により20日間にわたって北陸本線が不通となった。
こうした防災上の問題点を抱えていたことに加え、この当時北陸本線の輸送需要が増加しつつあって線路容量の低いこの付近が隘路となっていたことから早期の複線化が望まれ、1963年(昭和38年)6月14日に複線化ルートの調査が開始された。この結果、現在線では地すべりの時期も規模も予想困難で、抜本的な防止対策は不可能であり、危険度の高い地域を避けて新線を建設する必要があると結論付けられた。これに基づいてAからCの3つのルートが立案されて比較検討されたが、名立駅についてはA・Bルートでは廃止となる構想であった。一方CルートはBルートを名立付近で海岸側に寄せて、新しい名立駅を従来より約1,800メートル山側に設置するものとなっていた。
1963年(昭和38年)時点で、内陸に長大トンネルを通す計画があることが新聞報道されており、また複線化の調査のための地質調査が相当内陸まで実施されていたことから、地元では線路が内陸に移転しトンネル内となって駅がなくなることへの警戒感が広まり、翌1964年(昭和39年)3月には反対運動を進める反対対策会議が結成された。特に、長大トンネル案では駅が失われる名立町では強い反対があり、周辺市町村にも働きかけて反対運動が推進された。現在線を複線電化することが要望され、また新潟県ではトンネル案が実現する場合は現在線をローカル線として残すという提案もなされた。国鉄が検討した新しいルートでは、より現在線に近くなり、新しい名立駅を従来駅より約800メートル山よりに設置するものとなった。これに対して名立町では、地形から見て将来発展するためには新駅の位置はかえってプラスであるという見方もあり、これに妥結する動きがうまれ、1964年(昭和39年)7月12日の町民大会で受け入れる方向に大勢が決着した。これに対し、廃止予定の筒石駅がある能生町では引き続き反対するとともに、妥結する方向になった名立町へ反対運動継続の申し入れが行われることになった。最終的に筒石駅は頸城トンネルの中に設置することで妥協がおこなわれ、現行ルートが確定した。
1966年(昭和41年)3月1日に複線電化工事の起工式が行われた。浦本 - 有間川間は1969年(昭和44年)9月29日に新線に切り替えられ、名立駅も新駅に移転した。
新たな駅には貨物扱い設備も設けられたものの、1975年(昭和50年)3月10日には貨物扱いが廃止となった。さらに1985年(昭和60年)3月14日には荷物扱いも廃止となった。
1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となった。2008年(平成20年)4月1日に無人化され、2015年(平成27年)3月14日にえちごトキめき鉄道に移管された。
駅構造
当駅は、相対式ホーム2面2線を有する高架駅です。上りホームと、下りホームの間には、停車線路のほかに列車通過用の線路が2線あります。
駅舎側ののりばに直江津方面の列車が、逆ののりばに富山方面の列車が発着します。当駅の構内は広くそのほか駅の有間川方から駅舎脇に側線が分岐しており車庫も設けられています。
当駅の有間川方はすぐ名立トンネル、筒石方はすぐに頸城トンネルがあり、駅は両トンネルに挟まれた場所に所在しています。
待避線は駅の両側ともトンネルの中から分岐が始まっています。
ホームは駅舎や駅の外から見ると高い位置にあり、ホームと駅舎の往復は階段を登ることになります。ホームの筒石寄りでは駅の下を名立川が流れています。
ホームから階段を下ったところにコンクリート平屋建ての駅舎があり、駅舎内には1969年(昭和44年)9月に現在地に移転する前の名立駅の写真などが展示されています。
えちごトキめき鉄道への移管まではJR西日本金沢支社の糸魚川地域鉄道部が統括管理する無人駅で、2008年(平成20年)3月までは簡易委託駅でした。現在は、無人駅となっていますが、駅構内には近距離切符専用のタッチパネル式の自動券売機が設置されています。
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のりば
ホーム |
路線 |
方向 |
行先 |
駅舎側(1) |
■日本海ひすいライン |
下り |
直江津方面 |
反対側(2) |
上り |
糸魚川・泊方面 |
歴史
- 1911年(明治44年)7月1日、信越線の支線として直江津駅 - 名立駅間が開業した際に一般駅として設置されています。当時は終着駅でした。
- 1912年(大正元年)12月16日、信越線が糸魚川駅まで延伸され、途中駅となっています。
- 1913年(大正2年)4月1日、線路名称が改定され、信越線の直江津駅 - 糸魚川駅間が北陸本線に編入されるとともに、当駅もその所属となっています。
- 1969年(昭和44年)9月29日、北陸本線の複線電化に伴い現在地に移転しています。 移転前は、現在の名立区名立小泊にありました。
- 1975年(昭和50年)3月10日、貨物の取扱を廃止して、旅客駅となっています。
- 1985年(昭和60年)3月14日、荷物の取扱を廃止しています。
- 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となりました。
- 2008年(平成20年)4月1日、無人駅となっています。
- 2015年(平成27年)3月14日、北陸新幹線・長野駅 - 金沢駅間延伸開業に伴いえちごトキめき鉄道へ移管しています。快速列車の停車駅になっています。
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