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備中松山城天守 |
備中松山城は、岡山県高梁市にある現存天守を持つ連郭式山城です。現在、日本に12箇所ある現存天守の1つであり、国重要文化財となっています。国史跡にも指定されています。
日本100名城(68番目)に選定されています。
なお現存12天守では唯一の山城です。日本三大山城の一つでもあります。
この備中松山城は、仁治元年(1240年)、備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭であった秋葉重信が大松山に備中松山城を築いたのが最初です。元弘年間(1331年頃)には高橋宗康が小松山まで城を拡張しています。
城が築かれた海抜約430mの臥牛山は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構が残っています。
現存する天守、二重櫓、土塀の一部が国重要文化財に指定されています。また石垣も現存している他に櫓、門、土塀が復元されています。
天守は、複合式望楼型2重2階です。外観は、建物の高さが約11mであり、現存12天守のなかでは最も小規模ですが、12か所の内では最も高所にあります。まあ、現存12天守では唯一の山城であり標高も430mと高いのです。
外観は白い漆喰塗りの壁と腰板張りからなり、1重目の唐破風出窓や2重目の折れ曲がり出窓などはいずれも縦連子窓となっていて、1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられています。
この備中松山城は、かなり頻繁に城主が変わっていますが、中国地方の要となる戦略上の要衝であったからと言えます。
戦国時代に入り、上野信孝の一門の上野高直が信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入った際に、次男の上野頼久が備中松山城に入っています。頼久は、備中松山の臨済宗天柱山安国寺(頼久寺)を再興し菩提寺としています。頼久の跡は、嫡子の上野頼氏が継いで備中松山城主となっていますが、頼氏は天文二年(1533)に庄為資によって攻め滅ぼされています。
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六の平櫓、南御門、五の平櫓 |
この後は、庄氏が備中松山城主となり、備中半国を支配するようになりますが、やがて次第に庄氏をしのぐ勢いとなった三村氏が台頭し、備前国の宇喜多直家との対立が深まり、永禄6年(1563年)頃に戦が始まっています。この頃になると庄氏は宇喜多氏の配下となっていたようですが、三村氏を後押ししていたのが安芸国の毛利氏でした。毛利氏は、尼子氏を滅ぼして強大な勢力を持つようになっていたのです。ただし、九州の大友氏、備前国の宇喜多氏も強勢を誇っていたことと尼子氏の残党が各地で毛利氏を攪乱していたので、備中を完全に征服するまでには至っていなかったのです。
元亀2年(1571年)6月14日、毛利元就が死去しています。しかし毛利元清は備中へ攻め込み、備中松山城を落城させると、元亀3年(1572年)に戦功のあった三村元親を備中松山城主としています。この時点で備中国は庄氏から三村氏の支配となったと考えられます。三村元親は備中松山城を大松山・小松山を範囲とする一大城塞として整備しています(現在も石垣の一部が残っています)。
ところが天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返っています。この裏切り劇は、毛利氏が三村氏の天敵であった宇喜多直家と結んだのが原因でした。
元親の父であった三村家親が宇喜多直家に暗殺されていたことで、両家の間には深い遺恨があったのでした。宇喜多直家は実力では三村家親にはとてもかなわないので卑怯な手段をとったというわけですが、この直家あちこちで悪事を重ねていますね。三村元親は叔父・三村親成や竹井氏など一部重臣の反対を押し切り、織田信長と通じたため、翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続くことになりました(備中兵乱)。しかし備中松山城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害しています。これにより戦国大名としての三村氏は滅亡しました。備中兵乱の後、備中松山城の地は毛利氏の領有となっています。
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備中松山城二重櫓 |
慶長4年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れたため備中国が没収され、徳川幕府が城番として小堀正次・政一を置いています。この頃、麓に御根小屋が築かれています。何しろ城は標高430mの山上にあって麓と往き来するだけでもたいへんなのでこのような措置が執られたのでしょう。もう山城の時代ではなかったのでしょう。
またこの時点では既に天守が存在したと言われているので、毛利氏時代には既に天守が建造されていたと考えられます。
元和3年(1617年)には因幡国鳥取藩より転封された池田長幸が入城し、備中松山藩6万3千石が成立しますが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく没したため同家は廃絶してしまい、備後福山藩主の水野勝成の家臣が城番となっています。
寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元年(1681年)〜天和3年(1683年)にかけて天守を建造するなど3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となっています。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶しています。ただし水谷家は勝美の弟・水谷勝時に3000石が与えられたため、旗本としては存続しています。水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となっています。
元禄8年(1695年)に安藤重博が上野国高崎藩より6万5千石で入封しますが、正徳元年(1711年)には美濃国加納藩へ転封になっています。同年、石川総慶が6万石で入封しています。延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いています。この備中松山藩は藩主が早世で断絶したり、転封されたりとなかなか定着しなかったのですが、板倉氏が藩主となってからは定着しています。
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三の平櫓東土塀 |
7代藩主の板倉勝静は明治元年(1868年)の戊辰戦争で、旧幕府軍に最後まで忠義により与して函館まで転戦したため、備中松山藩は新政府の追討を受ける事態になっています。同藩の執政であった陽明学者の山田方谷は当時江戸にいた勝弼を新藩主に迎える事として川田剛を使者として迎えに行かせています。しかし、当時は備中松山藩は朝敵と見なされていて、同藩関係者への新政府の監視の目は厳しかったのです。川田は勝弼に丁稚の格好をさせて備中玉島行きの船が出る横浜へと向かっていますが途中で新政府軍の兵士に発見されてしまいます。その時、川田は『勧進帳』の話を思い出してとっさに勝弼を殴り飛ばしたところ、兵士達も驚いて通行を許可したために無事備中松山に到着したと言われています。ううむ、義経と弁慶ですね。
慶応4年1月18日(1868年2月11日)には備中松山藩は執政山田方谷の決断で無血開城していますが、明治2年(1869年)2月には新政府から所領を5万石から2万石に減封された上で、勝弼への家督相続が認められて藩主となっています。同年10月には松山を高梁と改名し、11月には藩知事となっています。
明治4年(1871年)2月、新政府の命令で東京へ赴き、そのまま同年7月の廃藩置県で免官となっています。
明治6年(1873年)には廃城令が公布され、麓にあった御根小屋は取り壊されています。城の建物は払い下げられ天守以外は放置されて荒廃しました。
昭和初期には天守が倒壊しかけたため昭和5年から数回に分けて修復され、昭和16年(1941年)には天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)の指定を受けています。昭和25年(1950年)には文化財保護法の施行により天守、二重櫓、三の平櫓東土塀が国の重要文化財に指定されています。昭和31年(1956年)11月7日には国の史跡に指定されます。
平成6年(1994年)より本丸の復元整備が行われ、本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀などが復元されて、現在の姿となっています。 |
住所 |
岡山県高梁市内山下1 |
電話 |
0866-22-1487 |
開館時間 |
4月〜9月 9:00〜17:30
10月〜3月 9:00〜16:30 |
休館日 |
12月28日〜1月4日 |
入館料 |
大人 300円、小中学生 150円 |
シャトルバス |
城見橋公園⇔ふいご峠
往復300円 運行約15分間隔 |
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住所 |
岡山県高梁市内山下1 |
形式 |
連郭式山城 現存天守:複合式望楼型2層2階 |
遺構 |
現存天守・二重櫓・三の平櫓東土塀、石垣、土塁 |
築城者 |
秋葉重信 |
再建造物 |
本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門
五の平櫓、六の平櫓、土塀 |
城主 |
秋葉氏、高橋氏、上野氏、三村氏、毛利氏
池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏 |
駐車場 |
ふいご峠駐車場、城見橋公園駐車場 |
築城年 |
仁治元年(1240年) |
文化財 |
国重要文化財・国史跡 |
廃城年 |
明治7年(1874年) |
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